第一章 ジェイムズ経験論の輪郭
    

第二節 
ジェイムズ哲学序論─ その通俗的性格─

 さて、ジェイムズの生涯の有様の素描を試みたわれわれはジェイムズの生涯における生への苦悩そのものが、ジェイムズ哲学の内容である点に気づくであろう。ジェイムズにとって「哲学とは人間の内的性格の表現であっ」
(1)たのである。又そこでジェイムズが個人としていかに生き抜いていくかについて関心をよせ、その実現のために奮闘していたのをみのがさないならば、それらの問題に答えてくれるのがジェイムズにとっての哲学なのであり、その意味でジェイムズのそれはエゴイスティックなまでに個人主義的である点に気づくであろう。あたかも身体的苦痛に満ちている者にそれを除去する薬と手術が必要なように、哲学は人生をいかに生きるかに呻吟する精神を鼓舞してくれるものでなければならなかった。個人の精神的危機にある時に抽象的な知や美や正義は何の役にたつのか。たとえ泥の中に潜んでいようと、この精神的危機から救いうるものが具体的にあるならばそれがジェイムズにとっての哲学なのである。
 同時に、哲学は自己に内的なものでもなければならなかった。哲学は与えられるのではなく、人間によってその生存のために作り出されるのである。ではその所以はどこにあるのか。それは哲学が人生そのものと結びつき、高尚であれ、卑俗であれ、個人の生存とともにあり、個人の生存的欲求に適うものでなければならないからである。即ちジェイムズにとって哲学とは行動の哲学、意志の哲学、信念の哲学以外のなにものでもなかったといえよう。
 このことからジェイムズはある種の道徳論を展開しているともいえるだろう。そしてそれはあきらかに個人道徳にのみ関係しているのである。人生とか世界は確かに知的対象ではある。だがそれよりもまず生存の対象でなければならない。人生においては常に個人が生きるに値する行動が要求されている。そのためにはわれわれの精神が与えられたものによって生命の流れをもつ魂の能力を十二分に発揮しえるかどうか、又その魂の中に信頼すべき生存への意志が認められるかどうかが最も重要な判断の対象となっている。
 人生の根本問題とは「この世は根底において道徳的宇宙であるか、それとも無道徳宇宙であるか」(2)である。又世界とは何であるか。われわれはそれを単に物理的世界であるとわりきってはいけない。「われわれの各々にとって実際的に真なる世界即ち個人の効果的世界は区別しがたい結合状態にある物理的事実と情緒的価値の複合的世界である。」(3)この世界にあるということはとりもなおさずこの世界は個人の内部の生のエネルギーによってきり開かれていく対象であることと同義である。
 この点の軽視、即ち「個人の重要性に対する過小評価」(4)はもっとも有害で非道徳的な宿命論に結びつける。ジェイムズがこのいむべき考え方のチャンピオンである唯物論を認めないのは、唯物論は道徳的世界が永遠であるという考えを否定し、究極の希望の存在を無造作に切りすてるからにすぎない。ジェイムズは個人の主体性を何よりも第一義とみる。道徳的見地とは個人の主体性が発揮されうる状況の意である。かかる見地においては人生は無条件的に肯定された姿でわれわれにたちあらわれる。即ち「この人生はわれわれのつくるところのものであるが故に生きるに値する」(5)のである。
 それに反し次のような見方、即ち世界内に生じる現象は単に物理的現象であるとする傍観者的な認識もあるのは否定しえない。それはそれはそれである種の人間本性に適った見方ではある。だがその現象も含め、いかなる現象もそれらが存在すべきだと考えられる根拠になるのは、それらの現象が現実的に要求されているという以外にない。
 ジェイムズはいう。「なにかがあらわれるべきだと考えうる唯一の真の理由は誰かがそれを望んでいるということである。それは欲求されている−いかに小さな世界の一団の断片であろうと欲求されている。これが生きた理由であり、それとくらべ物質的原因と論理的必然性は幽霊のようなものである。」(6)
  
これはあきらかに主意主義的立場に組している。そしてわれわれすべてに対して課せられる二つの生気ある課題、即ち「この世界がどうなりつつあるか」及び「人生は自らをどうつくっていくか」に答えるわれわれの基本的心的態度なのである。同時にそれは責務をも持っているいる。「われわれはある具体的な個人によって現実的につくられた欲求がなければ責務がありえないということをみるばかりではなく、欲求がある場合はいつでもある責務があるということである。」(7)この責務はいつも精神内に葛藤をよびおこしている。いうまでもなく、そこには「悪の問題」が介在している。
 ジェイムズは悪を超克不可能な根元的存在と考えずに、人間の努力によって超克される対象と考えている。それ故にこそジェイムズはあくまでも道徳的なのであり、欲求されて存在するあらゆる現象や存在が単にそれだけで認められるのではなく、われわれの倫理的意識を最も豊かにする状況下の中で認められてこそ、人間的生存の根底的意義がみいだされると考えているのである。精神的葛藤はジェイムズにとれば不可欠の要因であり、その必要性の強調は若きジェイムズの体験したペシミスティックな精神的危機を肯定しているばかりではなく、彼の特殊的経験を見事に一般化させている。
 ジェイムズにおいては道徳的生活は常に奮闘的気分のもとにおいてその理想的姿をみいだしている。安易な気分、即ち何事においてもイージーゴーイングに対処する精神は道徳の範疇からはずされる。精神においては感情の振幅の大きさが道徳的生活の必要条件なのである。われわれが道徳的生活を営む上に必ず考慮に入れねばならないといわれる道徳的関係や道徳的法則は真空内で動くことはできない。それらの唯一の住み家こそそれらを感じる心なのである。その意味で単に物理的事実から作られた世界は倫理的諸命題が適用される世界ではありえないのである。
 だがもう一つ、われわれは重要な点をみおとしてはならない、それは世界が変わりつつあり、人生がつくられうるという考えが単にそれらを考える行為者の意図の中にのみあってはいけないということである。
 ジェイムズは完全な行為においては行為者と彼の行為の対象とその行為のうけ手の三つの間の関係がたがいに適合していなければならないと考える。最善の意図であってもそれがいつわりの手段によって作用するか、悪いうけ手に反応されると現実に結実しない。それ故行為者の意図のみに行為の価値をみいだそうとするのは完全ではない。
 これは何を意味しているのであろうか。実はジェイムズ流の客観的存在性の認め方にすぎない。われわれは後においてジェイムズが人間の意識とその対象の関係についてくどいほどに探求する姿をみるであろうが、ここではジェイムズとて意識の対象、極端にいえば外的存在、を無視しえなかったのだと了解しておこう。
 そしてその中で特に留意されねばならないのは、その外的存在の存在様式である。ジェイムズは彼なりにそれをどう考えていたのであろうか。われわれはジェイムズの哲学が彼の生きるための手引きであることを知っている。従ってその哲学のためには、外的存在や世界は、それらを観念としてみようが対象としてみようが、決して不変であってはいけなかったのである。
 存在がその様式において諸相をもっているかどうかは形而上学的な問題である。その際事実に基づいて判断する傾向のある人には諸相的存在の証しは得られない。ジェイムズも又かかる考えをする人間であった。それ故にジェイムズはこの証しを明確に存在論として把握しえず、ただ知性を事物の適合の状態において「ある同意を強いる態度……と認識におけるやすらぎ 」(8)を含みうるものとしか定義しえず、彼が宗教的客観性をあきらかにする際にのべられるように、証しに対する確信は「その証しのもつ役目につけ加えられたより主観的な一つの意見」(9)にすぎないことを認めざるをえなかったが、しかし存在様式そのものが不変であるということはジェイムズの生存の基盤の破壊に通じるが故に、実践的には単に「不変ではない」のではなく、「不変であるべきではない」として規定されねばならなかった。
 この規定は自らの生存の完全性を求めるというよりも、生存そのものの現実的あらわれである意識の活動性、精神の努力、意志の主体性等々がその存在性を剥奪される危険性を防ごうとする、強いられた態度決定のもとになされている。われわれがジェイムズのこのような考えをどこにおいてみいだすかといえば皮肉にも、彼の知的態度においてである。
 ジェイムズは存在の可変性、流動性を実践的に要請していたため、それらを支持しない一切の理論を排撃する。それのみかそれら理論を構成する観念や概念をも無意味であるとさえみなしている。決定論、一元論、主知主義、絶対論はジェイムズにとってはタブーである。観念や概念はそれ自体においては真でもなければ善でもない。むしろそれらはスコラ主義的な空疎な実体に近づけば近づくほど枯渇していくところの、又個人にとってはかえって有害な存在となりさがる。見方によってはそれらは完成しているが故に、又十全的存在であるが故に、他の不要な部分をうけつけず、ひたすら自立しているようである。だがこれらほど不変の状態を頑強に維持しようとし、のみならず不変の状態に至高の価値をみいだそうとする存在はないのである。
 ジェイムズがこれらの理論や概念をさほど重要視しないのは、それらが不変を求め、固定的であり、実在の表面しかとらえていない、という事実に対する反感からきていることを知るのは大切である。なぜならばそこでは彼の努力は空転するばかりであり、期待と可能性に生存への道をみいだす彼の生き方がものの見事に否定されるからである。世界が変わり、人生がつくられるためには、ジェイムズの前にあらわれるものすべては可変的対象でなければならないのである。もしそうでなかったならわれわれの知的生活は全く誤っている。「われわれの知的生活の本来的なそして今でも働いている機能はわれわれの期待や活動の実際的な適用にわれわれを導くことなのである。」(10)
 しかしながらジェイムズは彼にとって好ましい外的存在の様式を直接的に確信しえなかったが、ある一つの信仰によって間接的に精神的安らぎをえることになった。われわれはここで再びルヌービエの意志の自由について省察せねばならない。
 われわれは前節においてルヌービエの自由意志の定義が次のようであったことを思いだすであろう。即ち「他にいろいろな考えをもちうる時に、自分がそれを選ぶが故に一つの考えを支持するということ」である。ジェイムズにとってそれらが意味しているものはただ次の点、即ち「それは単にわれわれの意志を現実的に促すあれかこれかの選択について一つ以上の選択が現実的に可能である」(11)という点だけである。即ち一つの存在について考える際にそれは様々な存在様式をもっていること、いいかえれば様々な存在様式として感覚的に把握されうるということが最も重要な点であり、それによりわれわれがその一つを選択しうるということ、そしてそれは可能的にあるのではなく、その一つの選択的行為によってまさにわれわれが現実的に生存しているということそれらがここから判断されねばならないのである。
 このルヌービエの自由意志の定義を一つの学説的見地からとらえるならば、結局はそれは多元論の肯定につながるだろう。晩年ジェイムズが『哲学の諸問題』の中で「彼(ルヌービエ)のすばらしい多元論の主張によって私に与えられた決定的な印象がなかったなら、私はそれまで育ってきた一元論的迷信から逃れえなかったかもしれない」(12)とのべているのは、自由意志の存在が彼独特の多元論の考えを構築するに必要であったということを示している。(二)
 それでは自由意志はジェイムズにとってどのような形のもとで思索されているのか。自由意志の観念とはそれが信じられることによって機能しているのである。ジェイムズがルヌービエの自由意志の定義によって救われたのはルヌービエの自由意志そのものの力によるのではなかった。まさにジェイムズの自由意志の最初の行為が自由意志を信じさせるという実践を生んだが故である。
 ここでわれわれはジェイムズの自由意志に焦点をあてつつ、彼の哲学の基本構造を最終的に整理してみよう。ジェイムズの自由意志とは「信ずる意志」の意味であった。それ故「信ずる意志」の存在が彼の哲学の根拠であり、その働きが彼の哲学的態度であり、その成果が彼の哲学なのである。われわれは前にジェイムズの世界と人生は個人道徳を軸にして展開されているのをみた。それと同様にジェイムズの哲学は信ずる意志を軸に展開されているともいわれうるだろう。
 それでは信ずる意志はジェイムズにとっていかなる意味をもっているのか。ペリーによればこの信ずる意志の理論は三つのグループにわかれる。それは「フィディズム(信仰主義)、多元論、個人主義をとりあつかっている。フィディズムは知識論に、多元論は形而上学に、個人主義は倫理学に触れている。しかし三つのあらゆるケースにおいては個人的実践的強調が勢力をしめている。」(三)ペリーのこの最後の言葉にみられるようにジェイムズのこの信ずる意志とは、要するに個人が世界を変え、人生をつくっていく上に不可欠な精神の機能の一つなのである。道徳的存在としての人間であるためには信ずる意志の行使が必要なのであり、この信ずる意志の存在によって、人間は単に物理的存在以上のものになりえるのである。
 この信ずる意志は知性であるというよりは感性的なものであろう。だが感性的であるが故に人間の物質的基盤に基づいているのではなく、信ずる意志は実体論的にはきわめて非物質的である。丁度それは知性が一見非感性的でありながら、心理学的には物質的基盤(生理的基盤)に基づいた作用しかしていないとうけとられるのと全く対照的である。われわれは常識的には人間の知性ないしは理性が野獣から区別される最も顕著な特性であると考えているのに反し、ジェイムズにとっては知性は人間であるためには必要であったが、人間になるためには十分ではなかったのである。
 人間とは単に人間であることではなく、人間になることなのである。いいかえれば人間とは道徳的人間なのである。そのためには人間は可変的なものでなければならない。知性は人間の可変的存在性については何も説明しえない。知性の働きはなるほど合理的であるかもしれない。しかし実際知性が人間の領域内で関係している対象は逆に不変的なものであり、又抽象的なものである。知性はせいぜい人間の死後の解剖をしえるだけである。決定論、一元論、絶対論、アブリオリズムはいずれも知性のかかる機能が最大限に合理的に且つ完璧に働いた理論上の果実にすぎない。
 それに反し意志はどうなのであろうか。たしかに心理的には「意志的行為はいつもわれわれの衝動と禁止の複合の結果である。」(13)あるいはそのように現象しているものとしてわれわれには思える。かかる説明に おいてはわれわれは知性の機能の築きあげる壮大な概念の殿堂の魅惑的な箍からのがれられないであろう。この殿堂を前にしては単なる意志の心理学的説明によっては人間たらしめる以上に野獣たらしめる屈辱をわれわれは味わわねばならない。だが信ずる意志は逆に知性によるこの殿堂が身動き一つだにできぬ死せる塊に他ならぬか、永遠の休火山にすぎない事実を知っている。そしてそこからそれが人間の実存的存在に少しも触れえないか、もしくはそのごく表面をなぞらうだけの力しかもたぬと考えるのである。知性に可能性と期待性の面影がみいだされない以上、ジェイムズにとっては信ずる意志はその作用において知性からいかに非合理的といわれ、又非科学的といわれようが、まさにその空想的で不必要な性格の中に可能性と期待性を常に所有しているが故に、人間を道徳的人間たらしめるのである。
 ところでこの信ずる意志、いいかえれば自由意志は哲学者に固有の特殊な観念だろうか。そうではなく、われわれ一般人のすべてにそなわる精神の特性なのである。と同時にそれは哲学的瞑想時に作用するものでもなく、日常時に、しかも頻繁に、われわれの精神の中で働いている。それはいかなる時か。「知的根拠に基づいて決定されえない真正の選択」(14)をせまられている時である、とジェイムズはいう。
 たとえば餓死寸前の人間が毒の入っているかどうか不明の食物を前にする場合、あるいは煙につつまれた見知らぬ建物の中でみいだした二つの出口らしい場所にでくわした場合がそうである。これらの例は直後に明白な結果をともなうが、なかなか結果の判明せぬものもあるだろう。自分の将来を決定する際に画家になるか哲学者になるかはずっと先の未来だけが正しい結論を教えてくれる。
 このような問いかけは卑俗的事実に権威を求める非科学的な論証のテクニックである。しかしわれわれはこのような問いかけから逆にジェイムズの意図を察知できるのではないだろうか。「一つの選択がその本性によって知的根拠に基づいて決定されえない真正の選択である場合は、いつでもわれわれの情念的本性が諸命題間の選択を単に合法的にきめうるばかりではなく、決めなければならない。というのはそのような状況のもとでは『その問題を決めないでそのままにしておけ』ということはそれ自身情念的決定であり……真理を失う同じ危険をともなっているからである。」(15)
 これがジェイムズのなによりもいいたかった真意なのである。信ずる意志ないしは自由意志はジェイムズにとってはまさに一つの信念としてある。そして信念は文字通り行為によって測られるものとしてある。その信念はたえず科学的証拠を凌駕し、又せねばならないものとしてあるだろう。
 事実われわれの世界においては信念がその告示者であると同様にその要素でもある実在が幾多となくころがっている。このような実在についての真理観は以下の言葉、即ち「信仰は正当で適切であるばかりでなく、本質的で不可欠である。真理はわれわれの信仰がそれら真理を本当にするまでは本当になりえない」(16)という言葉につきているのである。

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